高田の歴史を尋ねる会 千葉市議会議員 みす和夫後援会

みす和夫を応援します
目次
1.高田の沿革
2.高田の歴史の散歩道
3.出来事
 (1)高田の大火
 (2)神社の統合
4.盆歌(ぼさま)
5.半立ち落花生の由来
6.俳句の献額
7.北部草創高橋・石井・大塚三氏の碑
8.高田と宗教(年表)
9.参考 高田郷土史研究の経過
7.北部草創高橋・石井・大塚三氏の碑

俗称、大乱塔(卵塔場=はかば、墓地)の入り口に大正10年2月に建立された北部草創高橋・石井・大塚三氏祖宗之霊位の碑が建っている、建立の発起人は高橋三之助・高橋冨次郎・大塚喜三郎・高橋弥八の四氏で、裏面に直系の子孫として53家族73名の氏名が記載されており、その分布は高田町全域に及んでいる。

このことは、此処にある三氏が高田の草分けとして居住していたと推定されるもので北部(現北場)の地域に先祖が居をかまえ、後に南場・中新田・万花台にと分家し一族が発展していったものと考えられる。

発起人の方々は、この事実を後世に伝え、三氏一族が誇りと団結を持ち故郷の発展に力をつくし子孫繁栄の願いが込められたものと思われる。

高田の発祥については諸説があるが、碑文の「草 創」の意義は広辞苑によれば事業を起しはじめること・はじめ・はじまり、とある。

三氏の先祖が居住していたと推定される地域は、北方に豊かな湿田が開け、都川の最上流の小川には清流が流れ生活用水は豊富にあり、南側は畑とそれに連なり台地を形成し自然の要害となって外敵の侵入から守られている絶好の立地条件を備えている。
常真寺先代住職秋葉乾親師とも話したことがあるが、高田の草分けは寺の位置から見てやはりこの地域だと考えられ、一千年位の歴史があるのではと語られ、墓地使用者の何人かが同調されている。

私達は、郷土の発祥について、この碑の語るものを発掘してみたいと思うものである。


裏面記載の「直系の子孫」の氏名(世帯主のみ記載)

高橋三之助・高橋源之丞・大塚弥三吉・高橋冨次郎・石井貞蔵・高橋勘兵衛・石井庄太郎・

石井啓蔵・石井七之助・大塚喜三郎・高橋久五郎・高橋佐一・高橋弥吉・高橋弥八・大塚博・

大塚甚衛門・大塚宗吉・石井惣吉・大塚勇三郎・大塚亀之助・大塚信太郎・高橋庄一郎・

高橋太一郎・高橋源六・高橋久之丞・高橋米蔵・高橋熊吉・高橋善五郎・高橋忠蔵・高橋惣十郎・

高橋亮・高橋清太郎・石井三次郎・石井和三郎・石井茂三郎・石井初太郎・石井要蔵・石井健吉・

石井福次郎・石井三次郎・石井孝一郎・石井鉄五郎・大塚臨造・大塚伊助・大塚堅次・大塚沢三郎・

高橋六之丞・高橋八十八・高橋静・高橋良助・石井嶋吉・高橋勇蔵・大塚さだ・石井直次郎

(記載の順)
8.高田村と宗教(年表)
西 暦 年 号 参 考 事 柄 墓誌より
1308
1312
1429
~40
1487
1536

1620

1634

1635



1659
1660




1671




1678
1695


1738
1739

1749










1767
1876
1921
延慶元
正和元
永享年間

長享元
天文 5

元和 6

寛永11

寛永12



万治 2
万治 3




寛文11




延宝 8
元禄 5


元文 3
元文 4

寛延 2










明和 4
明治 9
大正10


将軍足利義教

日親没
足利義明が北条氏に敗死
家康死亡
キリスト教徒処刑
不受布施の僧追放

参勤交代、寺社奉行、宗旨人別帳を作る

不受布施派処罰










各地飢餓
生類憐みの令
悲田派禁圧



斎藤弐兵衛武蔵国から此の地に
移住者が増え高田村が出来たとの説もある
和田茂衛門氏の高田村開村の時期

七里法華改宗令の時高田に真言宗の1寺があった
常真寺の上人死

日経死亡

日浄野田に本覚寺を創立し布教

怒閑日浄、窓月目盛、本行坊日得、長左衛門、市右衛門、その女房の6人野田十文字原にて磔刑。高田村八右衛門殉死他に女1人同じ。日盛に御供した中に高田村の1人死罪・高田村源右衛門五輪塔を作ったが土中に埋める
日逞上人仁兵衛に辻説法
常真寺日宏備中国松山に配流浜野本行寺日逞大島に遠流地7師が流刑に処せられる



仁兵衛左衛門に切られ死去
井戸に出る虫(たたり)を日逞鎮める(千部の井戸)



日逞大島より金左衛門に返書送る
日逞上人大島で書いた過去帳(1905人)に高田の人数十人記載されている

元文の法難起こる
常源院日進三宅島へ流刑
聖人塚(改宗塚)
日進手書きの過去帳より高田村関係抜すい
15日 元禄16 癸未 9月
17日 行相 寛元 戊辰 5月
浄相 寛保 壬戌 11月 善四郎
22日 惣合 宝永 6 己丑
妙佑 寛永 2 己巳 七郎--
27日 什慶 延享 4 丁卯 8月 高橋ヤマネ
28日 妙相 寛永 2 己巳 善四--

常源院日進(70才)三宅島で死去
不受布施公許の布告
常源院日進上人記念碑建設寄付高田57名







寛永元 2







天明元
同 8
享和元
文化元
同 9
同10

寛文元
同 2
同12
延宝元

元禄13
宝永 7
正徳元
享保12













安永 4
天保 5
安政元
註  参考欄の事項は年号欄の年号とイコールではなくその年度の前後の出来事である
    墓誌欄は記載年号の墓碑の存在を示す
9.参考 高田郷土史研究の経過
年度 事 業 内 容
1988
S63

*万花台城址見学
*常真寺の古い仏像見学



*会則の作成
高田郷土史研究会発起人
 大塚喜一・石井良雄・大塚喜正・高橋久男・
 大塚克己・鴇田 守・大塚富子
千葉市教育委員会に報告(平成3年発行の「千葉市内仏像彫刻所在調査報告書」に記載されることになる)
1989
H元
*高田四姓の発祥
*遺跡調査
*「不受布施派」について
・各姓毎に委員を決め高田のルーツを探る
・奈木台見学
・武田宗久先生の講演
1990
H2
*常真寺の仏像の写真 ・高田青年館の2ヵ所に設置する
 日進手書きのお曼陀羅、珍しい絵曼陀羅他
 お寺には40幅のお曼陀羅があるという
1991
H3
*「お曼陀羅」について
*遺跡散歩コース地図
*日逞上人の写本
*お墓の調査
・今井公子先生の講演
・高田万花台方面地図と解説
・石井功氏よりお借りし写本作成
・お墓の構図、年号を調査
1992
H4
*お会式について
*研究会の今後の方針
・常真寺お会式進行手順
・アンケート調査結果まとめ
1993
H5
*視察研修
*講演会
・佐倉方面-加曾利貝塚、歴博、武家屋敷
・「地域の郷土史と郷土史研究の勧め方について」 伊藤和夫氏
1994
H6
*視察研修 ・浜野本土寺、割元仲田家、八街法恒寺
1995
H7
*視察研修 ・東金方面-宮谷檀林、元宮谷県庁、小西檀林、本漸寺
・土気方面-大椎城址、土気城址、県神社
1996
H8
*研究会解散

平成8年9月28日 「高田の歴史を尋ねる会」発足
1997
H9
*視察研修 ・日進上人の生家を尋ねる(大網長国吉野氏方)
 市原市国分寺、国分尼寺見学
1998
H10
*会報「たかだ」発行

話し合われた事柄
年度 内容 年度 内容
S63 ・民話を集める
・古い家の古文書調査
・石仏について
・不受布施について
・遺跡保存
・勉強会
・他地区との交流
・ぼさま盆踊り
・井上開拓史
H元




H 5
・お曼陀羅の調査
・万花台弁天池の云われ
・万花台発祥について
・奈木台古墳

・高田のルーツ
・小字名のいわれ

アンケートの集計より
・高田の古代
・高田の古墳
・古戦場と高田
・草創四姓の分枝とその分布
・御嶽神社の史実
・常真寺の史実
・不受布施信仰について
・石井氏の権勢にまつわる話
・地域発展に貢献した人々
・高田の年中行事
・その他
 高田のことば
 子供の頃の遊び
 古い頃の農作業
 内野・万花台

 編集後記

やっと宿願の会誌創刊号の発行に漕ぎ着けました。

「歴史は記録である、記録の無いところは記憶に頼る外かない、記憶が無くなった時歴史は無くなる。」

古村高田の歴史を言い伝え或いは古文書等により記録しておくことも大事であらうが近代の事も忘れてはならないと思います、明治以降の年中行事、食生活のことが忘却の彼方に押しながされ様としています、こうしたことを記録し此の会誌が何冊かになった時即「古村高田の歴史」と成ることを夢見ています。

此の小冊子を見た方々色々なご意見等お聞かせ願えれば幸いです。

会員名 石井 彰 石井良雄
石川正男 大塚晴功
大塚富子 高橋宏全
高橋久吉 高橋文良
鴇田 守

「たかだ」
高田の歴史を尋ねる会会報誌

発刊 平成11年3月31日
発行者 高田の歴史を尋ねる会
印刷 草野印刷株式会社


高田の歴史を尋ねる会 2010年
会長 高橋 宏全

「高田の歴史を尋ねる会」の連絡先は 291-3567 斉藤茂樹氏 へお願いします。
※こちらに「高田の歴史を尋ねる会」の内容を順次掲載していきます。