誉田の歴史3 千葉市議会議員 みす和夫後援会

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目次
1.誉田のおこり
2.「土の歌」の生まれた頃
3.野田合戦と古戦場
4.七里法華
5.怒閑塚と五日堂
6.納戸題目講
7.つらい助郷役
8.野田村からはじまった上総内証題目講

8.野田村からはじまった上総内証題目講          伊藤 和夫

常楽院日経の慶長法難以後は、関東方面では遺弟子の蓮照院日浄とその弟子、

真能坊日印・正円坊日永、恵遠院玉雲日耀らによって指導され、日経の法義を保持していた。

また、日経が建てた南横川の宝立山方墳寺は、弟子玉雲日耀・法蔵院日円来聴・窓月真成院日盛らによって、日経の法義をもって布教活動をし、信者を指導し寺も護持されたが、上総10ヶ寺との間に紛争・怨恨をまねき、一方幕府の役人からは日経の余残としてにらまれ、寛永4年(日経寂後8年目)代官三浦監物によって寺は破却され、玉雲と来聴ほか信徒3名は江戸に送られ取調べの後、獄舎へ入牢、翌5年6月1日玉雲は獄死、来聴ら4名は三宅島に遠島となった。

一方、野田村には寛永11年(1634)蓮照院日浄によって本門山本覺寺が建てられた。会津妙法寺23世長遠院日治は「野田新寺本覺寺のため」と本尊を図顕した。

会津妙法寺の末寺として建立されたのであろう。また5月には日浄は「奉唱題目千万遍 為野田勢信大衆」として本尊をかき、真成院日盛も本尊をかいている。

かつて日経系の信者はふえ、教線はのびていったが寛永4年の法難から8年後の寛永12年、再び三浦監物によって弾圧され、日浄ら僧俗6名は9月5日野田十文字ケ原にて磔刑、寺は焼却された。この刑以外に3名の殉教者がおり、計9名の犠牲者をだした。このうち窓月(宗月とも総月ともある。)日盛は寛永4年の時には逃れて下総地方で布教していたが、この法難で殉教している。又、吉田法照寺・千沢(粟生野)円立寺等も日経余流の寺として破壊されたという。

妙法寺長遠院日治は、法難の翌年3月23日、処刑場の十文字ケ原で布教をしたが、幕吏に追われ逃れたが、「法の為に自殺」したという。

 この寛永4年・同12年の法難によって日経門下の僧侶が一掃されたことによって、野田村(現在の誉田1丁目)の信徒を中心としてその法義が伝承されることになる。

 野田の寺は焼き払われたので、近くの京都妙満寺の末寺、生実本満寺の檀家となり、表向きには妙満寺系の諸寺に帰伏したが、内面では日経の法義を守り内密の信仰を續けることとなる。すなわち内証の信仰である。

 信者たちはひそかに集まり、お経をあげ教学を勉強し信仰にはげむことを内証題目とか、家の奥まった納戸部屋でひそかに行ったので納戸題目(講)とか言われている。日蓮の御書や日什・日経の御書の読める者を「導師元」とか「講代」と呼び、指導者となった。

 野田の信者は焼き討ちにあった本覺寺から持ち出された本尊や、刑場から奪ってきた日浄の頭蓋骨から抜き取った歯骨を小さく厨子に納めて御上人さまとあがめ、これらを竹の節をくりぬいた中に納めて藳屋根の中に差し込んでかくし、納戸題目のときには、村はずれの角々に番人をおいて本尊をかかげて密かに題目をあげ信行をつづけた。又、死人がでると導師元が本尊をかかげて密かに引導を渡しその後、檀那寺である本満寺の僧侶を招いて葬儀が行われた。

 この野田を中心とする信仰は大網方面の信徒も合流して「野田方」と呼ばれ信仰は伝えられた。寛永12年(1635)の法難から25年たった万治3年(1660)万治法難といわれる弾圧があった。その中心になったのは破却された日経の南横川方墳寺に程近いところに妙法山芳墳寺を創建した正統院日尚である。

 日尚が大網方面に来て布教を始めたのはいつ頃かよくわからないが、若くして京都から関東に下り、日経も学んだ大網下の大沼田の檀林や宮谷の檀林で修学し、宮谷檀林では玄能職までつとめた。

 この頃の事であろうか野田方面にも布教に歩き、三枝氏を教化しているし、多くの信者ができた。

 後に会津妙法寺の25世となった。会津妙法寺は18世に常楽院日経、21世に日経の直弟子である境智院日秀、23世に長遠院日治(為法自殺)と、日経有縁の寺院であり、また日尚は日経の高弟日寿を師としているので、日経の孫弟子ということで芳墳寺を中心に上総地方の布教につとめて、たくさんの帰依する信者ができた。

 寛永法難の日浄の流れをもつ浜野本行寺日逞に指導された野田方「西方」に対し、この日尚に指導された大網を中心とした信者たちは「東方」と呼ばれていた。

 日尚の布教は拡大し、上総・下総地方の有縁の寺はその同調者となった。

浜野本行寺日逞、生実本満寺日清、下太田万光寺日遠(音)、南冨田福田寺日護(悟)、桂安立寺日守、下吉井光明寺主(日審)上吉井東泉寺日上、砂子田寂光寺日永、高田常真寺日宏等の諸寺である。

日尚の布教は当然のことながら上総10ケ寺との間と相剋することとなる。

 万治3年(1660)9月、上総10ケ寺の内、本納蓮福寺日聖、東金本漸寺日英、北之幸谷妙徳寺日宗、土気善勝寺日悟、土気本寿寺日求、大網蓮照寺日進、田中法光寺の7ケ寺は日尚を、日経流強義、不受不施と幕府に訴えた。この事で僧10名俗人4名が難にあい、12月、日尚は三宅島に流罪。本行寺日逞・本満寺日清は伊豆大島へ流罪。

高田常真寺日宏は備中へ、大網冨田福田寺日護は福井へ、下太田万光寺日遠は四国丸亀へ、桂安立寺日守は丹後田辺に、吉井東泉寺日上は明石へ、吉井光明寺主は石見へ、砂子田寂光寺日永は加賀へとそれぞれ流罪された。

僧たちは赦免されることなく、皆、流罪地で没している。

 

日尚が三宅島に流されると、野田の熱心な信者であった鎗田六兵衛は、妻子を養う身でありながら日尚の身の回りの世話のため、2度も三宅島に難行苦行して渡り、仏法のため給仕奉公をしている。

野田の信者たちは結束し、各師は遠い流罪の地から消息文を送り、これによって信徒はさらに信心に励み、内証題目の秘密教団は堅く発展した。

寛文10年(1670)日尚は「与鎗田六兵衛法源院日空」と法号と本尊を与えている。

また5日堂に所蔵されている曼茶羅の裏面に、日尚が三宅島で年々題目を唱えながらの流刑の様子を示す本尊があるが、その中で「末代希有之重宝者也」と六兵衛をたたえ、「鎗田六兵衛法源院事之」としるされている。

 六兵衛は日尚歿後も、大島の日逞・日清を訪れ世話をしていたようである。

 五日堂の什物の中に(日逞の過去帳)があるが、この過去帳は元禄15年8月13日「零魂をして疾く仏身を得せしめんとの廻向也」として、1905霊の戒名を書いてあり野田の人も125霊書かれているが、これも恐らく六兵衛の手によって運ばれて来たものと思われる。

 日逞はこの過去帳を書いてから、2ヶ月後、元禄5年(1692)大島流刑後33年目島で亡くなった。

 六兵衛は日逞歿後は、野田村の本覺寺あと近くに庵を構え、先師の教えや、お経、五日堂に所蔵されている日逞の(降魔抄)などを、野田の人たちや近在の人たちの先頭になっておしえて「道場」としての役割をはたし、大網・九十九里方面の人たちも含めて「野田方」「西片」と呼ばれ勢力をましていったが、元禄15年2月17日亡くなった。

 「後生願うは野田の里 野田は南無妙法蓮華経」といわれたのは、この頃であろう。

 六兵衛死後も村の信者たちは道場として本尊を安置し勤行したが、次第におとろえていった。

 六兵衛が亡くなる少し前、即ち元禄11年(1698)大網長国の吉野家に、後に元文」法難の中心となった行信が生まれた。

 行信の祖父は日尚の教化を受け、日経の信仰を護持し、父もまた熱心な信者であったので、長ずるに従い感化をうけて9才から15才までは南横川の北田家で学問し、日尚に強く帰依して、その法義を布教する。

 享保11年(1726)行信が発起人となって長国に、内信の道場、「本門正義の小座」が建てられ、自らは人別帳から離れて浪人(牢人)となった。

 この頃信者も「東方」より「西方」へ、「西方」より「東方」へと移るなどして、互いに反目するようになっていた。

 享保19~20年頃、長国を中心に同9年につづいて疫病がはやり、40人からが死んだが、行信はこれも信者の中に野田方(西方)の信者が居た為だと、「西方」にかなり悪い感情をもっていたことがわかる。行信の書面の中にも「・・・・西方にても六兵衛殿、御繁昌の時分は、成仏もありたるべし、今は無得道の方也と見え候・・・」と記されている。

 野田の信徒は寺方に対して、消極的で争うとせず折伏布教を行い東方の信心血脈こそ正しいと主張した。

 享保12年正月、野田の六兵衛方の小座が火災にあった。行信30才の時の事である、行信はこれも西方の邪義のためだとした。

 享保16年(1731)宗祖日蓮聖人450年遠忌にあたって自ら剃髪して「浄源院行信日明」と改名して、東方の旗頭となった。

 野田では六兵衛の死後、名主の三枝重右衛門が御書を読めることで導師元となり、その重右衛門を支えて何かと補佐役を務めた人に、土気大木戸の伊藤玄基という若い医者がいました。元文2年(1737)5月三枝重右衛門が死去した。伊藤玄基医師は後を継いで指導する立場になった。しかし、その翌年、重右衛門の伜、幸八と村の清次郎が題目講寄合い所を建てたことで、幕吏に捕らえられ入牢されるという事件がおきた。

いわゆる元文法難である。

元文2年11月行信は、本納芝名村で題目講を行い、導師として法義をといていた。

これを同村蓮華寺がとがめ、村役人に訴えたことから紛糾し行信は蓮華寺に質問状をだし、蓮華寺は10ケ寺と協議の結果、寺方としての返答書を翌年正月、行信に送ったことで、ますます波瀾を起こし3月寺方の北之幸谷妙徳寺、本納蓮福寺、大網蓮照寺は江戸に上り、願人となって行信らを訴えた。寺社奉行大岡越前守の取調べをうけることとなった。

 

 元文3年3月第1回の取調べに始まり、翌年4月の判決まで10度にも及び行信ほか830余人もが訊問をうけた。

 元文4年2月13日判決の日、召喚された者830余人、みな内信心の人々であった。

 その内には野田方の重右衛門の伜幸八と清次郎らも含まれていた。

 判決は行信、三宅島へ流罪、野田村幸八・清次郎は重追放、所払4名、831名は改宗証文に印判の上放免された。元文法難である。行信は9月遠流船出に至るまで、在牢18ケ月500日余となった。

 三宅島に着くと自ら「浄源院日進」と改名した。

 信徒は荒海を越えて日用品を内緒に送ったり、なかには上総と三宅島を往復して取り次ぎ役をする信徒もあった。

 日進は島から上総の信徒へ本尊や紙位牌・消息文を送っている。

 誉田の高田町万花台の内証題目講にも日進からの物があり、特に、高橋利幸家にある本門正義衆絵図曼茶羅など三幅対の絵図は、日進が書いたものであろうが、中央に開眼の導師本化沙門日進とあり、宝暦3年(1753)2月28日とあることから島から送られたものであろうが、高田は野田の隣部落で遠くなく、この辺りまで日進の指導した「東方」の影響の強かったことは、驚くことである。

 

日進は同行の追善回向するなどして、明和4年3月15日在島28年行年70才島で歿している。

 又、高田地区には日経以来の本尊や消息文が多数のこされている。

 元文法難で幸八・清次郎が捕らえられた野田村では、導師役をつとめていた伊藤玄基医師は自らの身の危険も感じ、それ以上に信徒に災いの及ぶのを恐れ、大木戸から姿をかくし、行方不明となってしまった。玄基医師こそが野田内証題目講の最後の指導者でした。

 伊藤玄基は大木戸を離れて4年目に、内証題目講のことで出身地も伏せ名前も、伊 玄基隆敬(よしたか)と名乗って「日蓮旧跡参拝」と称し佐渡島に渡っていました。

 「寛保元年(1741)6月11日小木の津に渡海」と書いている。31才の事である。

平成8年新潟県立佐渡高等学校が創立百周年記念事業として、佐渡に伝わる五大史書の内、「佐渡名勝志」の刊行を計画し、今まで不明であった「原本」も発見し平成9年発刊されました。

 「佐渡名勝志」は、佐渡奉行所の役人須田六右衛門富守が、佐渡に来た浪人、伊玄基の並外れた博識と史眼、多彩な能力に惚れ込み、自分が30年かけて集めた佐渡ヶ島の史・資料のすべてを伊玄基・須田富守によって編纂、延享元年(1774)出来上がったもので、古代から江戸中期にかけての歴史書である。

 しかし、浪人伊玄基の前歴を読み取れるものはありませんでした。

 総之上州山郡出身といわれたけれど、何処か不明でした。唯一つ佐渡相川町の法華宗の寺院で須田六右衛門富守が有力檀家である法泉寺を調査した際、同寺の「涅槃全像記」の中に「土気庄大木戸邑産也、遊行佐濱四年」の1行が発見され、これを手掛かりに佐渡高校の教師小菅徹也が平成8年12月土気に来て大木戸の善徳寺に行き、伊玄基が「伊藤家」(屋号、表の家)の者である事が判明したのである。

 「佐渡名勝志」の他に特筆すべきものとして、相川町法泉寺の「大涅槃金像図」は須田六右衛門富守が功徳主となってつくられたもので、長さ255.5センチメートル幅241センチメートルの巨大なもので、これは相川町総源寺の涅槃図を須田富守配下の者に写し取らせて、伊玄基がその上に法華経8巻、無量義経1巻、観普賢行法経1巻の細字をもって諸仏を描き、久遠偈41遍を用いて総字数10万5千985字でかきあげたものに、彩色を施し出来上がったもので、延享元年(1744)の作である。又、畑野町御梅堂にある掛け軸で京都本圀寺貫主日解が題目を書き、その下に伊玄基が法華経の細字で大きく日蓮御影を描いたものがある。

「佐渡名勝志」が出来上がった翌年、延享3年5月10日須田富守が死んだ。富守の亡くなったあと、その家族や友人知己に迷惑を掛けることを恐れ、玄基は密かに佐渡から姿を消した。内証の師、日経の越中の地へでも行ったのであろうか、わからないが、延享4年5月11日奇しくも富守の命日と1日違いの1年後亡くなっている事が内証題目講に係わる文書に記録されていた。

 野田の最後の内証題目講指導者伊藤玄基は、日蓮の流刑された遠い佐渡の地で、大輪の花を咲かせていたのであった。

 

 1790年代寛政年間に至っても「隠し目付入込みにつき注意書」など村方衆に配られ、「5人組」制度を利用した密告など、幕史からは注目されていた。文久3年(1863)「野田村宗門御改帳」があり、内証題目講、不受不施、キリシタン等の探査が随分と厳しかった事がわかる。

 明治になって不受不施など禁教は解かれたが、野田や高田の内証題目講は近年に至るまで行われていた。

 

 

( 追 記 )

この原稿を書いた後、次のような事が判明した。

先に書いた訴願人である蓮福寺など寺方は野田方の不穏を奉行所に訴願、伊藤玄基の糾明を願い許可が下り5月中旬、公儀に召出され訊問をうけ、その結果、今後の召出しは寺方の願いであった、公儀によって特別の取調べようもないので、寺方に出頭すべき事と宣告を受けた。玄基は寺方の宿坊が浅草寺町の本立寺であることから出頭、この事件の落着まで本立寺に住居して野田方の信徒の訴人となることを内諾しており、この為8月中旬まで公儀に召出され糾明される者が多くでた。

 

このような事から罪ほろぼしの為か、日蓮の流された佐渡島に向かったのではないでしょうか。

佐渡から去った玄基の消息はわかりませんが、「一千箇寺首題帖」(原本・中村考也蔵)に没年と法号「清性院自現日秀」とあり僅か1年後37才の若さで亡くなっているが、亡くなるまで「千ガ寺参り」をしていたようである。