誉田の歴史2 千葉市議会議員 みす和夫後援会

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目次
1.誉田のおこり
2.「土の歌」の生まれた頃
3.野田合戦と古戦場
4.七里法華
5.怒閑塚と五日堂
6.納戸題目講
7.つらい助郷役
8.野田村からはじまった上総内証題目講

3.野田合戦と古戦場

 むかし、誉田1丁目から2丁目にまたがるあたりを「野田十文字原」と呼んだ。

 永禄8年(1565)にこのあたりで合戦があった。野田合戦といわれるもので、「土気古城再興伝来記」や「南総酒井伝記」によると次のようである。

 前の年、市原市の鶴舞町にあった池和城が、房総の里見氏と一緒に、市川の国府台に出陣して敗れて帰った。勝ちに乗じた北条軍は、余勢をかって、上総まで攻めこみ、池和田城攻め落とした。

 池和田城が落城すると、土気の城主酒井胤治は、負けた里見氏より、勝った北条氏に味方するようになったので、里見家では驚いて「酒井氏は代々里見家の恩をこうむっていたのに、義理も恩も忘れた。討たなければならぬ」と、大軍をひきいて、誉田のすぐ隣の、市原市の潤井戸から草刈まで押し寄せてきた。

 このことが土気城に知れると、土気城の軍勢は、滝台というところへ出て、千葉と土気の間の大きな田谷に陣をとった。互いにときの声をあげて入り乱れて戦った。土気の軍勢は「この合戦に後を見せては後日にあなどりを受けるだけ、一生の浮沈はこの時にある。」と新手を入れかえ、東西になびき、南北に分入れかえかれて決死に戦った。房州里見勢は、長い道のりに疲れていたうえ、新手の兵力を入れることも出来ず、終日の戦いでさらに疲れが増してきた。土気軍は、いまこそと総攻撃をかけたので、里見勢はわれ先にと逃げだした。

 そのとき、土気勢のなかの、弓のうまい竹内太郎左ェ門というものが、間道を先回りして、里見軍の逃げていく道のわきのススキのなかにかくれ、弓をさんざん射かけたのであった。矢は次つぎに命中し、14、5人が枕を並べて討死をした。不意をついかれておどろいた里見軍は、「それ、敵の大軍の追撃だ」とばかりうろたえて、四方八方へと逃げ散った。

 酒井胤治は、戦が終わると、太郎左ェ門の働きをほめ、恩賞を与えようとしたが、富田伊豆守が「逃げる敵を討っても手柄ではない。太郎左ェ門は、敵の武具や衣装を剥ぎとって自分のものにしているから、ほうびもやる必要はない。味方の大軍がうしろにいたからこそ、太郎左ェ門は敵を討つことができたのです。」と反対をした。板倉長門守は「いや、太郎左ェ門にはほうびをやるべきだ」と主張して伊豆守と長門守の仲がこのために悪くなったという。結局、このときの太郎左ェ門のほうびはとりやめとなってしまった。

 この戦いを野田合戦とよんでいます。土気の越智の「勝負谷」などの地名は、この時のものによるといわれています。

 

 これより先、1538年10月、市川市国府台で戦いがあった。これは次第に東の方に向かって勢力を伸ばしてきた北条氏と、西の方に勢力を伸ばそうとしていた小弓の足利氏とのぶつかり合いである。小弓の足利義明には房州の里見義堯・義弘が従った。足利義明は子どもの義純、弟の基頼を大将とし、里見義弘を副将として、そのほか下総の武将を集めてその数12,000騎をひきいて、江戸川を前に陣をかまえた。これに対して北条氏綱は、その子新九郎氏康と兵20,000をひきつれて、松戸の堤に達して陣をかまえた。

 この戦いの兵力についてはいろいろで、小弓軍2,000、北条軍3,000とも、小弓軍10,000、北条軍20,000ともいわれているが、はっきりしたことはわからぬが、どちらにして北条軍の方が多かったようです。

 北条軍は三隊にわかれて、攻撃してくる足利軍を包囲する作戦をたてていた。7日合戦は松戸の矢切台ではじまった。里見軍は後方にあって先陣は足利軍勢が攻めたてた。足利義明の本陣では、弟の基頼、子どもの義純らの順で出撃していったが、ともに討死してしまった。里見義堯は、小弓足利軍勢の勝つ見込みがないとみるや、足利義明をおいて、さっさと撤退始めてしまった。義明は、弟や息子が討死にしたときくと、怒りに怒って2人の弔いを合戦とばかり、愴をとって攻撃に出たが、あえなく討死をしてしまった。ここに小弓公方は21年で滅亡したのである。

 高田町の御嶽神社あたりの地名を「駒方」というが、国府台の戦いにやぶれて、撤退する里見軍は北条軍の追手と十文字原で戦ったといわれ、その時、里見方の将の乗馬をつないであったところであるといわれている。そこは三方が水田で南方だけが戦場の十文字原につづく所で、大正年間発行された「千葉郡誌」には、「其距離僅かに15、6町、現時尚ほ大なる塚三ヶあり。是当時戦死者を埋葬せしものなり。」とあります。

 当時、高田町の「管戸(すがと)」というところに、某浪士の三戸があったけれど、兵火をさけて、二戸は高田本郷(石井健一郎氏、石井勇氏の先祖)一戸は平川(高橋惣太郎氏の先祖)に移ったといわれています。


4.七里法華

 1457年のことである。酒井小太郎定隆は戦乱の世に一旗あげようと、平山藤代・竹内の3人の家人をつれて、江戸の品川から千葉の地に行くために船にのります。ところが品川を出て数キロ進んだとき、もうれつな南風が吹きつけ、船は木の葉のように波にもまれました。船中の人々は顔色もうしなって、あわてふためきました。定隆は大志を抱く身であるので、このまま海の藻くずになってしまうのは実に残念だとなげき、歯をかみしめ、こぶしを振りあげて、「天はわが武軍を助けてくれぬのか・・・」と叫びました。しかし、この船に1人のお坊さんが乗り合わせていました。お坊さんはあわてることもなく、船のへさきに立って、お経をとなえ、お祈りをすると、不思議なことに風が静かにおさまって、船は無事に浜野に着くことが出来ました。

 酒井定隆たちは、お坊さんの不思議な力に驚いて「貴方はどちらのお坊さんですか」とたずねますと、「わたくしは品川のお寺と、下総の浜野村の本行寺につとめる住職の日泰という、法華経の行者です。今日風の災難を救いましたが、これも法華経の力によるものです。」と答えました。定隆は感激して、これからの武軍を祈ってもらい「わたしの志が達成出来た時は、なんなりとお礼をした。」と申し出ました。日泰は「わたしは、信ずるところの法華経を天下にひろめることです。もし、あなたが一城の主となったなら、領地をのこらず私の宗門にしていただきたい。」といいました。そこで定隆は「必ず必ず一城の主となった時には、お望み通り、貴僧をお迎えしたい」と約束しました。

 定隆は日泰と別れて、房州の里見家に仕えたいという説と、小弓の原胤定のもとに仕えたという説がありますが、長亨2年(1488)土気城主畠山重康を討って、ここの城主となります。54才の時です。

 ここに酒井越中守定隆土気城主は、浜野より日泰師を招き、かっての船中のお礼をのべるとともに、約束に従って、その年、すなわち長享2年5月18日、領内の寺院道俗ことごとく日蓮法華経に改めるよう、おふれを出しました。

 領内は七里におよぶといわれ、上総の七里法華といわれています。誉田付近もこの改宗令によって、日蓮宗になり、高田の念仏塚はこの時の仏具などを、ここに埋めたといわれています。


5.怒閑塚と五日堂

 千葉県が生んだ日蓮宗祖、日蓮は、1222年安房小湊に生まれた。12才で近くの清澄寺にのぼり、その後、鎌倉・比叡山などで修行を行い、その結果、救いを法華経にもとめ「南無妙法蓮華経」のお題目をとなえ、法華経を世にひろめることこそが、国を救い、人を助ける大切なことだと結論にたっしたのである。

 日蓮は国ぐにをめぐって、飢饉や、病気におののく人々を見、それに対処すべき政治の無能さをつぶさに見た。その体験から、たくさんのお経のなかで、法華経の真理こそが、人々を救い、社会や国家のためにもよいことなのだと確信したのである。

 だから法華経以外の念仏や、禅や律宗などの信仰は、社会、国家をみだすものとして、排撃をした。そして「立正安国論」をあらわして、北条時頼におくり、政治の改革をもとめた。また、しばしば予言によって、政治や社会の危機をうったえ、法華経の信仰の重要なことを主張し、他宗とも宗論を行ったりして、そのことで、何度も弾圧をうけている。伊豆に流されたり、鎌倉滝ノ口であやうく、斬罪に処せられようとしたり、佐渡に流されたりしたことはよくしられているところです。

 多くのお経のなかで、法華経こそが、釈迦の真実の教えをつたえ、このお経の功徳(くどく)を信じてお題目だけをとなえるだけで、人々は社会的身分や職業や貧富や男女の差別なく、この世ではいろいろな利(やく)が、あの世では往生(おうじょう)が出来ると、法華経は説き、現実的でやさしいこの教えは、乱世を生きぬくこの時代の人々の気持ちをよくとらえることができ、関東をはじめ、ほとんど全国的にひろまり、日蓮宗の寺院は、武士の氏寺などになってさかえていった。

 日蓮宗は、日蓮の死後も、弟子たちによってうけつがれ、南北朝の内乱のころ諸宗がいりみだれる京都にも進出して、しだいに京都や堺などの人たちの心も、とらえていった。

 こうした日蓮宗にいっそうの発展をもたらしたのが、日親(にっしん)である。日親は1407年、千葉県山武郡でうまれた。京都にのぼった日親の布教活動は、開祖日蓮に似てはげしく、他宗からの非難と迫害はつねにあったが、くじけることなく布教につとめた。禅宗びいきの将軍足利利義教を改宗させようとしたため、とらえられ投獄された。牢屋は4畳の広さで、高さは1メートル30センチほどのところへ38人の罪人がおしこめられたというから、すざましい。そのうえ、天井からも壁からも、大きな釘がつきでていてうごくこともできない。「ナムアミダブツ」とたったひとこと念仏をとなえて改宗すれば、すぐに牢からだしてもらえる。だが日親はいわない。おこった将軍は、日親を牢からひきだして、まっかに焼けたなべを頭にかぶせ、舌の先きを切り「念仏をとなえろ!」とせまったが、それでも日親はいわない。

 この迫害で、ことばは不自由になり、頭はやけどでものすごくただれていたが都の人々は「なべかむり日親上人」と、不屈の精神をたたえ、かえって人気が増したといわれています。

 現在、誉田の日蓮宗門徒の属する京都妙満寺派においても、応永5年(1398)同寺の日仁、日実らは、将軍義持に直訴して、法華経を信仰するように求めまた将軍の前で他宗との宗論を許してほしいと申し入れましたが、とらえられ、むちで打たれたうえ、熱湯を頭からあびせられたり、水を口からたえまなく流しこまれるなどの拷問をうけました。

 また、天文5年(1536)には、京都21ヶ寺をことごとく焼き打ちと弾圧はつづき、攻撃的な日蓮宗僧侶の態度は他宗のうらみを買うとともに、政権から危険視されました。

 やがて、織田・豊臣・徳川と統一政権が確立されるにつれて、弾圧もつよまりそのため日蓮宗の大勢も、おとなしく消極的な方向へとたどることとなります。

 千葉でも七里法華の改宗がされるにつれて、領内の寺院の僧侶もその繁栄に甘んじて、布教活動も消極的になっていったのです。しかしそのような状勢の中にあっても、宗祖日蓮のごとく強い態度をもちつづけ、諸宗や政権にたいする改宗への働きかけを続けとおすものもありました。

 1595年豊臣秀吉は、方広寺の大仏供養に全国各宗派から1000人の僧侶を集めて行うことになりました。このことは法華経こそが唯一のおしえで他宗をそしり、他宗派の人からの施しは受けないし、施しもしない方針の日蓮宗には一大事でした。このことを推し進めれば秀吉の招待をことわることとなります。秀吉の強力な命令をことわるにはよほどの決心がいる。日蓮宗では京都のおもだった僧侶が集まって、出席するかどうかを相談しましたが、結局は出席する方が大勢をしめたのですが、その中にあって、参加をこばみ、秀吉に法華経を説き大仏供養をとりやめるように勧告した日奥という僧がおりました。

 この日奥の気概に共鳴したものの中に、大網白里町の方墳寺の日経がいました。慶長13年(1608)徳川家康に招かれ江戸に行った日経は侍たち5.60人に打ちたたかれ半死半生の身となり、4日間も意識を失うほどでしたが、意志をまげることなく、翌14年京都6条河原で鼻や耳をそがれるという迫害をうけたのでした。

 日経の弟子に日浄というお坊さんがいました。日経の志に感じて上総、下総、江戸とさかんに布教活動を行い、日経が北陸に流されたあとは関東で中心的な役割をします。その日浄が誉田町1丁目に本門山本覚寺というお寺を建てて、布教活動の中心にしようとしたのが寛永11年(1634)3月のことです。しかし翌年、代官三浦監物は寺を焼きはらい、日浄をとらえ江戸に送り、8月下旬江戸から東金まで引き廻しになり、9月5日、現在の誉田町2丁目、外房有料道路誉田インター近くの十文字原で、信者をふくむ6人を磔の刑にしました。さわらに獄門さらし首という極刑であったのです。この信者のなかには1丁目の長左ェ門(渡辺長衛氏の先祖)市右ェ門(1丁目守りまささんの先祖)もおりました。

 この刑が行われると、高田町の八右ェ門(石井憲一郎氏の先祖)の女房は日浄を慕って鎌で腹をかき割って殉死をしました。この時以来・誉田町1丁目には寺がなくなり現在北生実の本満寺の檀家となっています。

 日浄の首はその日の夜信者の手によってうばわれ、ひそかに1丁目の総基地内に埋葬し、目じるしに杉苗1本が植えられました。高田の源右ェ門(高橋鎮治氏の先祖)は供養のため五輪塔をつくりましたが、幕府の目をのがれるため土中に埋めました。現在は塔を掘り出されて杉の木のもとに安置されています。のちに信徒たちは、五輪塔の近くに小さな堂を建て、日浄の命日5日をとって五日堂といいましたが、村の人たちは日浄を敬って御五日(おいつか)(さま)とよんでいます。

 誉田中学校入口の墓地内ですが、堂はいたんだのでとりこわされ、現在は誉田1丁目公会堂が建てられています。目じるしだった杉の木も枯れてきて、切りたおされました。

 刑場は6人の遺体を埋葬して、怒閑塚、又お塚山といわれています。付近には、刑のとき使った・槍や刀を洗った血洗いの池(刀洗いの池ともいう)がありますが、最近では池の水もきれてしまい、凹地が昔の物語を示すだけです。

 本覚寺の什物等は、1丁目の信者によって、ひそかに守護されて、現在公会堂に保存されています。なお五日堂五輪塔は千葉市の文化財に指定されております。


6.納戸(なんど)題目講(だいもくこう)

 慶長14年(1609)教と六条河原で、日経らに弾圧があったのち、妙満寺派の多くの寺院の中には、募府に誓いの文章をだしてあやまり布教活動もしなくなってしまったものがある中で、1丁目にあった本覚寺の日浄らは関東地方で指導の中心的な役割をしており、日経の門下の人たちは、誓い文をだしてあやまるような寺や僧に対して、はげしく批難をして、京都妙満寺もだらくしてしまって、本山としてあがめることもないというようになりました。

 日経の死後も、強い信仰心にささえられていた門下の僧侶たちも、玉雲・来聴らの弾圧、寛永12年には日浄らの処刑、本覚寺の焼き打ちなどで、指導する僧侶たちも少なくなると、その教えは自然と一般の信者の人たちによって、伝えられるようになりました。

 幕府はキリシタンとともに、方広寺大仏殿の供養のときに反対した日奥が、はじめた不受不施派。それと同じように強く信仰を求める人たちを邪宗門として、宗門改めという制度をつくってきびしく吟味することとしました。

 宗門改めとは、幕府が邪宗門の禁制を徹底させるために、村ごとに毎年、お寺から檀家であることを個人ごとに証明した帖簿をつくって提出させたものです。

 信徒たちは団結して、表向きは、ふつうの妙満寺派のお寺の壇家としており、宗門調べにも、ふつうの壇家として報告しますが、内心では、日経、日浄らの教えを守りつづけて行くという、秘密のグループとして講がつくられていきます。

 これらの人たちは、人が死んでお葬式のときにも、だらくしてしまった寺の僧に引導(いんどう)を渡してもらうよりは、自分たちの手で行い、表面上はお寺にたのんで葬儀をするというようにしました。

 ないしょにお題目を唱えるというこの講の人たちは、家の奥まった部屋の納戸(なんど)や天井裏で行う「納戸題目」と、母屋(おもや)の外に、はなれ屋、小座を作って別に仏壇をつくって信仰する「小座の題目」の2種類があって、日蓮聖人や、日経の御書が読める者を「講代または導師元」とよんで、ひそかに講話や読経がおこなわれました。誉田1丁目、むかしの野田でも、四方に見張番をたてて、説法や読経をし、大事な文書や、ご本尊などは竹のふしをぬいて中に入れ、かや屋根の中に差し込んだりして守りつづけたということです。

 幕府はさらに、1660年、大網の法墳寺の日尚、浜野の本行寺の日逞、生実の本満寺の日清、高田の常真寺の日宏ら9名を弾圧し、高田のお寺の日宏は岡山県へ、日尚は三宅島へ、日逞・日清は大島に流されてその地で亡くなっています。この島流しで、野田の鑓田六兵衛(鑓田伍助氏の先祖)は、日尚の身のまわりをお世話することで一緒に島に行き、28年間も仕えたということです。

 また、この島流しの直前、以前高田の常真寺にいた日逞は、野呂から高田に行く道で、草刈りに行く高田の仁兵衛(高橋行雄氏の先祖)に出合い、仁兵衛のために辻説法をしました。そこは、最後まで御上人塚としてありました。また、日逞は現在石井克己さん宅のところにある井戸に、千部の経を封じたといわれ、その井戸は「千部の井戸」といわれて今もあります。

 つぎつぎに弾圧にあって、お坊さんのいなくなったあとを、野田では三枝重右ェ門(三枝進吉氏の先祖)が指導者として活躍をしていました。重右ェ門の死後は、大木戸の医師、伊藤玄基らがあとをついで活躍しました。この納戸題目講は、明治に至るまで行われました。

 現在は信仰の自由で、むかしのようなことはしていませんが、高田町あたりには講がつづけられています。


7.つらい助郷役(すけごうやく)

 豊臣秀吉は、全国をまとめるために、また地方の大名をまとめるためにも全国の道路網について大きな関心をもちました。とりわけ東海道・中仙道・日光街道・甲州街道・奥州街道は、江戸の盛衰にかかわるものと重要視し、整備をしました。

 もちろんこの他の道で脇往還・脇道などとよばれたものも整備されて行きました。

 徳川幕府になってからも、この道路の政策はつづけられて、道路に並木を植樹したり、一里ごとに道路の左右または一方に、五間四方の丘をきずいて、その上に、えのきや、松、杉などを植えた道路標識をつくりました。一里塚といわれます。この一里塚は夏は通行人に木かげをあたえ、えのきの実などは旅びとの飢もしのぐことに役立ちました。

 誉田付近も、土気から2丁目にかけて松並木が最近までありましたし、1丁目にも並木があり、並木という屋号の家もありますし、一里塚の地名ものこっています。仁戸名のガンセンターのわきには一里塚がよく保存されています。

 幕府は駅伝の制といって、街道のところどころに宿場を設けて、そこに人夫や馬を用意させていて、大名行列や、そのほか幕府の用たしにさしつかえのないようにしました。そして、用意している人夫や馬をださせて働かせました。この仕事はみんな村の百姓がさせられていたのです。この仕事のことを「助郷」といいます。

 

 

 さて、誉田1丁目付近は、むかしは野田原といって、一面の原野でした。

 1618年11月三代将軍徳川家光が東金に来たとき、この付近は千葉の御殿から土気の御茶屋まで、五里も原っぱで人家もなく、人や馬の飲み水にも不自由なところだから、このあたりに村を作れということで、平山からわかれて、野田村ができました。野田村も大網へ行く街道の宿場となりました。大網街道にはほかに土気に宿場がありました。

 このあたりは大きな街道ではありませんから、参勤交替の大名行列があることもなく、日光東照宮に将軍がおまいりする道すじでもありませんから、ほかと比較にはなりませんが、それでも将軍家が鷹がりをするときや、外国にそなえて、房州の沿岸を警備するために、動員させられたのでした。

 野田の宿場には、当時、野田・茂呂・落井・富岡・小金沢・大金沢・谷津・駒崎・刈田子・古市場・有吉・辺田・平山・市原郡草刈・土気の高津戸・大木戸・越智の18ヵ村で野田村助郷組合をつくり、伝馬六疋をおいて用たしをしていました。

 幕府のつごうで大勢の人たちや、たくさんの荷物が通過するときには、その宿場の人夫だけではたりなくて、となりの宿場からも応援をたのまなければならぬこともたびたびありました。近いところなら朝早く出かけ、人夫仕事をつとめて夜は自分の家に帰ることもできる。ところが遠い浜野や、そが野から仕事がくると明日の仕事にもさしつかえてしまい、そのうえ、もらったわずかな賃金も。めし代やら何やらでなくなってしまう。もっとこまることは、農作業のいそがしいとき、働きざかりの若い人が村から出ていくので、田畑も荒れて年貢米もさし出すこともできなくなると、助郷の仕事をきらいます。となりの宿場からの手つだいの助郷にはあらそい事にまでなってしまうほどでした。

 野田村の助郷組合も、北生実村や南生実村、浜野村なおどと、手つだいのことで6ヶ月も7ヶ月もあらそい事がつづいたことが、何度もありました。

 農民も、ただただおとなしく幕府のいいつけに従っているだけではなくなってきはじめました。

 この助郷制度と宿場制度は明治になるまで続きました。


8.野田村からはじまった上総内証題目講
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