誉田の歴史 千葉市議会議員 みす和夫後援会

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目次
1.誉田のおこり
2.「土の歌」の生まれた頃
3.野田合戦と古戦場
4.七里法華
5.怒閑塚と五日堂
6.納戸題目講
7.つらい助郷役
8.野田村からはじまった上総内証題目講

1.誉田のおこり

このあたりは古くから千葉氏の領地で、千葉郡山家郷といわれていたのではないかと言われています。天正年間になって徳川氏の領地になりました。

慶長・元和年間(約400年前)には幕府の支配領として代官を置いて治めました。

その後、藩の領地になったり、旗本の知行地になり、領主は変り、また村によって支配もちがっていました。明治の廃藩置県によって、葛飾県・曽我県・印旛県・木更津県となったのですが、明治六年に現在の千葉県になりました。その頃は、野田村・遍田村・高田村・平川村・平山村・東山科村の六村に分れていました。明治14年10月野田村他5か村が連合しました。戸町を石田権右門が努めました。

明治17年8月には戸町役場を野田村に置きました。明治22年町村制公布と共に合併して「誉田村」と改称しました。初代の村長に野田の三枝八十郎氏がなりました。

誉田の村名は野田村をはじめ各村にある八幡宮の祭神、誉田別命の名からとって、村名にしたと言うことです。

当時の戸数は363戸、人口は2260人(男子・1154名、女子・1106名)でした。




 「誉田1丁目(野田)」

 

 「平山郷史」には、1619年2月、平山村・辺田村から分郷して、野田原に新田を開き、街道の御伝馬継場として問屋場ができ「野田新田」といわれたと記載されていますが、古文書には、分村は寛永8年(1631)ともいわれています。

 辺田・平山・有吉・椎名崎・谷津・駒崎・刈田子・茂呂・中西・落井・富岡・大金沢・小金沢・下古市場・村田・越智・大木戸・高津戸村と合わせて18ヶ村の駅場本村で、村の中央には駅典が設置されていました。当時は人馬がたくさん通り、荷物も近くの村々はもちろん、九十九里浜でとれた魚は野田を通り、曽我野・浜野に送られました。町もにぎわい、旅館・酒屋などが軒を並べていました。今も上宿・中宿・下宿などの地名が残っています。江戸時代には森川氏の所領でした。11年11月独立して野田村戸長役場をおきました。明治28年の鉄道開通によって、町のようすは変わりました。明治22年の誉田村の発足と共に野田区となりました。千葉市に合併と共に誉田1丁目になりました。

 

   

 「辺田」

 

 辺田村の起源ははっきりしませんが、1595年(文禄4年)下総国葛飾郡平山郷と言って、豊臣時代西郷弾正の捨地があり、その時の検地帖ではまだ平山村から分かれてはいませんでした。1619年(元和5年)には平山村と共に辺田村は野田新田を分郷しています。言い伝えられるように平山村から辺田村が分村したのは慶長年間のことと考えられます。

 1628年(寛永5年)森川大膳正重俊の所領となりました。明治2年(1869)6月生実藩知事森川俊方の管轄に入り、明治6年6月千葉県になりました。明治11年には、平山村・東山科村と連合して、平山村に戸長役場をおき市原郡役所の管轄になりました。明治17年には野田村他5ヵむらと連合しました。

22年には辺田区となります。千葉市への合併によって辺田町となりました。

 

 

「平山」

 

1705年(宝永2年)平山村長谷部の住人、永野金衛門家の成乃丞の書き写した「平山郷史」によれば、824年(天長元年)9月9日村人によって、平山字谷津山に神社を勧請とあります。これによると今から1160年前には、村ができていたことが推測されます。元和5年?に野田新田を分郷しました。寛永5年に森川藩領になり、それ以後は辺田村と同じです。

 

 

「東山科」

 

古くから平山村に入り、平山村字中峠野ですが、この地には千葉郡坂尾村と長峯村の入会地があり、秣場(まぐさば)官有地でした。明治9年9月、京都府山城郡山科村の郷士、比留田権藤太外22名の人々に戊辰の役の功労で、官有地の内、平山村他2か村の入会秣場、中峠野31町5段2畝26歩を賜り開墾を始めました。明治11年市原郡役所の管轄となりました。

大正7年御料地払い下げの法律が公布されましたので、民有地になりました。

千葉市に入って東山科町になりました。

「高田」

御嶽神社の由緒書によれば、鎌倉時代の花園天皇の延慶年間(1308年頃)斉藤武兵という人(現在誉田1丁目の斉藤武男氏の先祖)が武蔵国から来ました。邸内に祠を建てて、秩父の御嶽山を祭り、同時に日本武尊を合祀したということです。その後だんだんふえて高田村と言うようになりました。今から670年ほど前のことです。七里法華の改宗令が出された長享2年(1488年)には真言宗の1寺院がありました。天正年間には春日神社を祭るほどに村は大きくなっていました。

古くから       千葉氏の領地

1488年(長享2年)     土気城主酒井越中守

1590年(天正18年)    徳川家康

1596年(慶長元年)     内藤修理亮

1626年(寛永3年)     野村彦太夫

1632年(寛永9年)     佐倉班堀田加賀守

1651年(慶安4年)     堀田上野介

1661年(寛文元年)     平松和泉守

1676年(延宝6年)     大久保加賀守

1701年(元録14年)    戸田土佐守忠章

明治3年には高徳班の支配所となり、明治3年3月には曽我野班になり、翌4年には印旛県になりました。明治6年には千葉県になり市原郡役所の所管となりした。高田村他2ヶ村戸長役場をおきました。明治17年野田村他5ヵ村連合となり、明治22年誉田村高田区となりました。千葉市合併により高田町となりました。

「平川」

いいつたえによると、治承年間(1177年~1180年)千葉常胤の家臣、平河五郎種次(後に入道・真正坊)が谷台に城を築きました。後に里見氏に属し、天文年間、北条市に滅ぼされ、城はなくなったと伝えられています。残念なことに、嘉永元年(1848年)12月21日、越智新田並木より、火がでて、折からの激しい風にあおられて、平川一帯を焼き、白井から更科まで延焼しました。鎮火するのにおよそ1週間かかりました。この火事で村の記録等の大半を焼いてしまいました。現在残っている物の中で、1591年(天正19年)の「平川村縄打水利帖」等があります。江戸時代には、村を3分して、代官野田三右衛門・旗本林宗五郎・神谷主水の相給地となりました。明治2年5月葛飾県になり、同3年曽我野藩・明治6年千葉県になりました。市原郡役所管轄になり、和泉・平川村が連合して和泉村に戸長役場をおきました。後、平川村に移転、明治17年野田村他5ヵ村と連合しました。明治22年誉田村平川区になりました。千葉市と合併して平川町になりました。

「誉田町2丁目」

 

古くから十文字原と呼ばれていました。明治12年に陸軍少佐津田出が、管地を借用して、他府県から移住者を集めて開墾を始めました。明治29年鉄道が敷設されて、駅が出来るとともに人口が増加しましたので、「十文字区」を明治30年に新設しました。千葉市と合併と共に誉田町2丁目となりました。

「誉田町3丁目」

 

元は市原市東村瀬字猪之台でしたが、誉田駅に近い所であるのに、他郡の行政地域でした。住民は生活に不便なために昭和28年頃から、誉田地区に編入を希望していました。地域の住民、大島延之氏・飯高勇治氏らの約10年間に及ぶ運動で昭和36年11月千葉市に合併して、誉田町3丁目となりました。

「大膳野」

安永3年(1774)十文字野の秣場争いの結果、この十文字野に隣接する内野秣場(大膳野)は同5年、椎名郷10ヵ村の入会地として現在に至り、千葉市合併後、大膳野町の一部は県住協によって住宅地が造成分譲され、その地は「誉田団地」と呼ばれるようになった。

「村役場」

 

明治12年3月大小区制度が廃止されて、行政区画も改正されました。当時の各村は他の村と連合村を作りましたが、明治17年には、野田村他5カ村で連合村を組織して戸長役場を野田村につくり、今の三枝氏の家を借用しました。明治21年10月誉田村と改称して、各村を区に改めました。明治30年には十文字区を新設して6区をしました。

役場は、連合役場時代から三枝家を借りていましたが、誉田駅からも遠いので明治38年4月、野田区大塚台南789番地の某氏宅を借りることになりました。

明治42年2月15日村長、森百十郎氏は村会にはかり、1238円85銭の予算で役場庁舎を建築することになりました。野田区299番地(現在の今井石油・今井康夫氏宅)に明治42年12月31日に竣工しました。昭和26年現在の小学校の前に新庁舎が出来ました。現在の千葉市誉田支所です。

「駐在所」

 

明治14、15年頃、千葉警察署の派出所が置かれましたが、明治21年野田区に駐在所が設置されました。数回の移転後、現在の小学校前に建築されました。戦後、2丁目に第2駐在所が設置されました。昭和59年、第2駐在所は廃止となり第2駐在所は「交番」になりました。

「郵便局」

 

明治9年10月16日、野田郵便局が設置されました。場所は現在と同じ野田781番地です。

明治25年に現在の同じ名称の誉田郵便局になりました。集配区域は旧誉田村よ椎名村、土気町の一部でした。

昭和54年5月21日に現在の場所に移転しました。

また昭和53年2月16日には誉田駅前郵便局が開設されました。

「鉄道」

 

明治20年政府が私鉄条例を公布して、民営鉄道が盛んに造られるようになりました。

はじめ、房総鉄道会社が、曽我野駅から誉田を経て大網に至り、東金行きと、茂原行きの線を計画しました。明治21年に線路敷設の認可を得ました。最初の計画の馬車鉄道から、計画を変えて電器鉄道敷設の出願をし(25年)電気鉄道に変更し、次いで蒸気軽便鉄道の出願をし、蘇我・大網間について免許を取りました。27年1月に起工し、普通鉄道に計画を変更して、予定区間を明治25年1月20日に開通しました。30年2月には蘇我から千葉までのばして総武鉄道に連結させました。

鉄道の開通によって誉田駅を、現在の1丁目に計画しました。当時野田は馬車の駅馬としてにぎわっていましたので駅を作る計画には反対をしました。現在の誉田駅付近は、津田出氏たちが、開墾している最中でしたので、ここに駅をつくろうと力をそそぎ所有地内の線路の敷地、平均巾12.5m、長さ2,000mと駅の敷地を寄付して、現在の地に設置されました。

最初は「野田駅」と名付けました。明治49年9月1日、政府はこれを買収して院線(今の国鉄)としました。大正3年の誉田駅利用の乗客は1日平均220名位でした。

大正8年には上下列車の発着回数は8回、誉田駅から主な駅までの料金は、

両国まで  63銭    船橋まで 38銭

千葉まで  18銭    銚子まで 85銭

木更津まで 50銭    勝浦まで 74銭

その頃の一日の賃金が、

大工       1円20銭~1円60銭  普通1円50銭

木挽き      1円50銭        普通1円50銭

農家の日雇い 男 60銭から 1円     普通70銭

       女 50銭から80銭     普通60銭

昭和48年7月15日には電化されました。現在では複線化されています。

昭和61年8月平均乗降客は1日7,700人です。


2.「土の歌」の生まれた頃

歌人、中村孝助は明治34年、誉田2丁目に農家の長男として生まれました。小学校の頃から短歌に心をよせ、新聞、雑誌にも投稿していました。

当時、口語短歌-話し言葉での短歌運動を進めていた西村陽吉と知り合い、自分の作品を発表し、大正15年には単行本の「土の歌」が出版されました。作品が発表されると、各方面から、農民としての素朴な、汗と涙と土の歌として賞賛されました。

中村孝助の歌は、日常の働く中からそのままを作品にしていったので当時の農民の暮らしぶりや、労働のつらさをよく知ることが出来ます。

 

背にかつぐ  日除けの青葉乾からびて

もめば粉々に  風に散らばる

昼の間わ手がつけられず  夜草取る

  畑の砂わ  いまだ温とい

赤ん坊だ  飯だ  お針だ  仕事だと

  息つく間ない  百姓女

白粉も  香水もない生涯だ

  土の匂いが  しみた女等

心から美味しく  食べたこともない

  百姓の身で  買って食う米

白いまんまが  食えさえすれば

  正月や盆が来たように  よろこんでいた

 

この頃は、第1次世界大戦のあとで、物価は高くなるばかりで、人々の生活は苦しくなる一方だったようです。

たとえば大正7年の春、米1升が20銭だったのが、夏には50銭と高くなり各地に米騒動が起こっています。

同じ年の8月の新聞に誉田の農民のことが出ています。当時の村役場では、村内300戸のうち150戸の農家を救おうと、麦1升20銭、外米1升15銭という安い値段の券をくばって、売りに出しましたが、100軒ほどしか買いに来ないので、調べてみると、残り50の軒は、15銭の外米を買うお金もなく、子供たちは生いもをかじっていたと、書かれています。こうゆう苦しさで

 

立枯れの  稲にまじってヒデリ草

  真紅に咲くか  売られゆく娘

 

うられてゆく子どもたちもありました。病気になっても思うように医者にも見てもらえずに、

 

1つでも売れ  と言われた泣きたさよ

  病気の母に  卵すすめて

金があれば  なおる病で死んだよと

  死亡届に  書きたい心

 

このような生活の中で中村孝助の歌はつくられていったのです。

 

石油買う 金もない夜は

  枯枝の燃えるあかりに  歌も書いたよ

妹まで縄をなうのに  すまないと

  思いながらも  歌を書く夜

文字知らぬ  人たちに聞かせても

  よくわかる歌が欲しいと  友と話した

 

当時、農村で歌を作るということは、まわりの人々から特別の目で見られる時代でしたからいろいろ悩みをもっていたようです。

昭和22年には清瀬保二氏によって40余りの作品が作曲され、またレコードにもなりました。

 

おちおちと夜も眠らず  繭を取れど

  絹の着物も  持てぬ妹

 

の1首は大英百科事典にのせられ、英和されました。歌人、中村孝助は、その後もずっと歌を作っていましたが、昭和49年交通事故で亡くなりました。

 




3.野田合戦と古戦場
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