高田の歴史を尋ねる会 千葉市議会議員 みす和夫後援会

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目次
1.高田の沿革
2.高田の歴史の散歩道
3.出来事
 (1)高田の大火
 (2)神社の統合
4.盆歌(ぼさま)
5.半立ち落花生の由来
6.俳句の献額
7.北部草創高橋・石井・大塚三氏の碑
8.高田と宗教(年表)
9.参考 高田郷土史研究の経過
発刊にあたって
会長 石井 彰
この度、高田歴史を尋ねる会が念願であった会報を年一回発行することとしました。この会は、高田郷土史研究会が平成8年に解散したことを惜しみ有志10名により発足したもので、組織的にも、財政的にも極めて貧弱な組織であり会報発行など夢物語と考えていましたが会員各位の情熱でともかく創刊号をだそうと決定されました。

解散した高田郷土史研究会は、石井良雄氏等を中心に昭和63年に発足し町内会の補助も受け平成7年には会員30名を擁して大きな成果をおさめておりましたが、諸般の事情で平成8年度の総会で解散が決議されたものです。

この郷土史研究会が発足以来進めてきた研究資料、調査解明された郷土の生い立ちなどの貴重な資料をこのまま埋もれさしては後世に悔いを残すこととなる憂い細々ながら事業の継続を期して有志で「高田の歴史を尋ねる会」を結成したものです。

今回の創刊号は資料として不十分な点もあるとは存じますが発表することで有識者のご高見をいただきより精度の高い資料に整備し、将来発行を予定している高田郷土史の基礎資料としたいと考えております。

ご一読の上各位のご講評ご高見を賜れば幸甚に存じます。

高田村字訳絵図 1876(明治9)年頃 Ⅲ-120図

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1.高田の沿革
年 号 西 暦 内容
先土器時代
縄文時代

古墳時代
字万花台に遺跡が形成
字冬寒台に中~後期の大型貝塚、字曲堀、中の芝、椎名谷、花見堂に同期の遺跡、字万花台に集落形成
字奈木台に古墳群、字万花台に円墳
延 慶

正 和
応永 3
〃 10


長享 2
天正18
慶長元
〃 19
1308~
1310
1312
1396
1410


1488
1590
1596
1614
武蔵国秩父郡より斎藤弐兵衛この地にきた、邸内一祠を建て御嶽山を移し大和武尊も合祀した
移住者が増え集落を高田と称したといわれる
御嶽神社の社殿破損の為建替え
香取造営科足納帳に高田の名がある
(和田茂衛門氏の説によると永享年間[1429~1440]開村したのではないかとしている)

七里法華の改宗令が出された時真言宗の一寺院があった
徳川家康領となる
内藤修理亮の支配地となる
船橋・東金新道(御成り街道)作道分担(高230石、40間の負担、名主次郎右衛門)
寛永 3
〃  9
〃 10
〃 15
〃 19
万治 3
寛文 4
元禄12
享保 9

〃 10
〃 12
延享 3


宝暦 3
明和 8
〃  9
安永 3
1626
1632
1633
1638
1642
1660
1664
1699
1724

1725
1727
1746


1753
1771
1772
1774
野村彦大夫領となる
佐倉藩領となる
大野の芝地を巡り大木戸村と争うが相手村内とされた
大広野の入会権を主張し高根村、川井村、五十土村と争ったが退けられる
高田村、野呂村、平川村の村境について取り決める
幕府領となる
佐倉藩領となる
旗本戸田忠章の知行所となる村高283石870合
高田村、野呂村、平川村の村境を取り決め一礼を交わし合意に達す
高田名主十郎右衛門
平七郎割元を勤める
本郷より菅戸新田(万花台)に7軒移る
旗本戸田氏の年貢割付状 年貢米118石余、永14貫余
(下総国千葉郡高田村寅年加納割付之事)
年率:税 田・六ッ二分(6割2分) 畑・屋敷六ッ三分(6割3分)
御嶽神社鳥居腐杉の為、字三反目の木を切り建替える
九郎左衛門割元を勤める
野呂村と野分けしたい入会い秣場を巡り争うが内済した
野田十字路の入会い秣場は周辺村村23の内野となっていた(泉水、今井、曽我野、村田、浜野、生実郷、小花輪、北生実、南生実、赤井、大森、有吉、古市場、茂呂、落井、大金沢、小金沢、富岡、中西、刈田古、駒崎、谷津、高島の村村が入会地として利用していた)この年このうち6村が入会を外れたので願い出ていた高田村が許され、土気往還の北側に限り入会に加わることとなった
天明 6
文政10
弘安 3
嘉永 2
安政 2



明治元
〃  3
〃  4
〃  5

〃  6
〃  8
〃  9
〃 11
〃 17
〃 18
〃 20
〃 22
〃 24
〃 41
大正 8
〃 15
昭和 6
1786
1827
1846
1849
1855



1868
1870
1871
1872

1873
1875
1876
1878
1884
1885
1887
1889
1891
1908
1919
1926
1931
水砂野を巡って平山村と争う
改革組合村 川井古泉に属する
高田村年貢米 347.327俵
当時27町7反余の領主林があり、大板、小割、貫、垂木を毎年納めていた
※高田村の家数74軒:男219人:女221人:馬65匹
※和泉村継馬の助け郷として高田から行っている(野呂、高田、川井、佐和、五十土、中野、大和田、平川)
※八街法宣寺に俳句の献額が4面あり高田の人々の句が多数ある
宇都宮藩預所となる
曽我野藩となる
曽我野県となる(7月14日)・印旛県となる(11月13日)
印旛県役所から無地高の取調べを命じられた
組頭高橋勘右衛門が願書提出
大小区制 11大区1小区
高田小学校創設
      11大区2小区
連合町村「野呂」野呂、高田、五十土
 〃   「野田」野田、平川、平山、辺田、高田
高田、平川校合併
高田、平川校分離高田校常真寺に
誉田村発足4月1日(明治19年小学令 尋常高等各々4年尋常は義務)
高田校新築移転
誉田小高田分校
高田隔離病舎建築
高田に電灯が付く
高田分校新築移転

*割元
大庄屋、惣庄屋、大肝煎、ともいい、江戸時代の地方行政組織の一つで村役人の最上位であった。数か村を一括して支配、名主・庄屋と代官・郡代との中間であって年貢・諸役の割当てを行った。身分は士分に準じたので、苗字帯刀を許された。
2.高田歴史の散歩道
1.御上(ごじょう)人塚
万治2年(1659)日逞上人が高田の仁兵栄衛に辻説法をした所、同上人は万治3年大島に配流
2.千部の井戸
寛文12年(1672)12月22日石井金左衛門が高橋兵衛を切った、その祟りで井戸に無数の蛭がわいたといわれ、日逞上人が千部の経を持ってその井戸を封じた、また当地は日什門流信仰の地で役人の手入れの時経文千部を投入したともいはれる
3.常真寺
建立の時代は不詳、元真言宗であったがとけ城主酒井定隆の強制改宗により日蓮宗となる日逞上人の石像がある、当初京都妙満派に属していたが、戦時中身延山の管下となる
4.御嶽神社
本文参照
5.高田貝塚
馬蹄形貝塚古墳
昭和29年の発掘により埋葬人骨一体のほか、縄文時代中期後期の土器打製石斧叩石石皿磨石等の石器マダイ、スズキ、コチ、ボラ等の魚類、ハマグリとキサゴを主体とする鹹水産の貝類が出土、当時遺跡の付近まで海進していたとすると東京湾沿岸に分布する貝塚のすべては海面下に水没していたことになり、都川水系の遺跡群相互の関連を考えるうえで重要な存在とされている

6.古墳群 9.弁天池
6-1 中堀第1遺跡  /古墳群 縄(中・後)/円墳
6-2 中芝遺跡 集落跡/古墳 旧・縄・古・奈/円墳
6-3 奈木台第5遺跡 包蔵地/古墳 縄(後)/方墳
6-4 藤沢遺跡 集落跡  旧・縄(前・中)近
※包蔵地・・・
遺物が散布し、遺構などが確認されている地
本郷よりの移転者が開田の為に用水地として整備され、池に弁天様を祀る、都川の一の水源となっている
10.(しょう)人塚
元文4年大岡越前守により、日進は三宅島に遠島、信徒は改宗、証文印判の上赦免された時の改宗塚と思われる
7.落人五輪塔 11.万花台城址
源氏滅亡の際の落人のものといはれる 平川城の出城、永禄8年2月北条氏政により平川城と共に攻め落とされる
8.七軒屋 12.分水嶺
万花台集落発生地、享保の改革により本郷より
七軒が移転(※)集落を開いた
※・斉藤(甚兵ヱ) ・森倉・大塚(七軒屋)
 ・高橋(半兵ヱ) ・大塚(彦えんどん)
 ・高橋(神兵ヱ) ・高橋(かなさん)
万花台団地周辺の台地は、平川にかけ標高が高く分水嶺を形成している。団地の東側は、大作谷より大池、野呂を経て鹿島川に合流し印旛沼に、西側の水は菅戸谷から高田排水路を経て千葉港に

3.出来事
(1) 高田の大火
明治40年5月14日夜高田本郷に大火あり、常真寺本堂を始め12戸66棟が焼失するという大変な出来事があった。なお、この火事は家屋、家財の焼失のみならず当事稲作についで大きな収入源であった養蚕(この時期は春蚕の真っ最中、通例母屋の中で飼育されており蚕も家屋と一緒に焼失)収穫皆無という打撃を与えた事件であった。
[火災資料=明治40年5月17日付け千葉日報]
{参考 大正6年誉田村春蚕飼育農家一戸当り平均収穫金額96円36銭=大正6年誉田村誌の統計資料より算出、また明治39年ゴールデンバット発売4銭、白米一石20円43銭}

(2) 神社の統合(御嶽神社)
現在の御嶽神社は大正3年11月に御嶽神社、日枝神社、菅原神社、日枝神社、菅戸神社、馬頭観音神社の6社を馬頭観音神社に合祀し社名を御嶽神社とし、更に大正4年5月に稲荷神社2社を合祀し建立したものである。旧御嶽神社の由緒によれば、花園天皇延慶年間(1308~1310)斎藤武兵衛なるもの武蔵の国秩父郡より諸人率い移住し、守護神として秩父郡御嶽山より勧請したという。又所在地の字駒方といはれ、天文7年(1538)下総国府台の戦いに破れた小弓御所足利義明里見義暁らは十文字原にて追っ手と戦った際に里見側の将の乗馬を繫留した所と伝えられている。
参考
明治9年 神社統合令
明治9年12月25日付 千葉県令
「管内の山野或ハ路傍ニ散在セル神祠佛堂(祠ハ山神塞神祠ノ類堂ハ地蔵堂辻堂ノ類)ノ矯陋ニシテ一般神寺ニ比シ難ク、且平素監守者無之向ハ総テ最寄社寺江無洩合併又ハ移転為致候上、其ノ旨明治10年2月15日限リ可届出候尤人民信仰ヲ以テ更ニ受持ノ神官僧侶相定メ永続方法ヲ相立、存置致度分ハ其旨詳細可願出旨区内ヘ無洩可相達候此段相違候事」
4.盆 歌
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高田の歴史を尋ねる会 2010年
会長 高橋 宏全

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